戦艦「河内」殉職将校の史料 子孫から田中さんに届く 日刊新周南の記事がきっかけ

史料を見る田中さん

徳山湾に沈んだ戦艦「河内」を研究している周南市川崎の田中賢一さん(82)のもとに、1918年(大正7年)7月12日の沈没時に殉職した藤好鐵之助少佐の孫の大阪府枚方市の藤好洋さんから、田中さんの研究を紹介した10月1日付けの日刊新周南の記事がきっかけで貴重な史料がもたらされ、田中さんを感激させている。
戦艦「河内」は荒天のため徳山湾に停泊中に謎の爆沈をとげた。わずか4分間で沈没して乗員621人が亡くなった。田中さんは島民が乗員の救助にあたった大津島出身で、50年にわたってこの102年前の悲劇を研究し、毎年の慰霊祭にも出席してきた。その成果を小冊子にまとめてもいる。藤好さんは新周南新聞社のホームページに掲載の記事を見つけ、同社を通じて田中さんに連絡をとった。
田中さんにとって将校の遺族からの資料提供は今回が初めて。藤好さんから届いた史料には爆沈から間もない7月21日に呉鎮守府で開かれた慰霊祭の写真や、艦長の正木義太大佐らの弔辞、階級も付された戦艦「河内」殉難者名簿、藤好少佐の写真など。田中さんも殉難者名簿は手に入れていたが、階級はなかった。田中さんからも手持ちの史料を提供した。
史料によると藤好少佐は1880年(明治13)、愛媛県宇和島で生まれ、1900年に海軍兵学校に入学。03年に卒業後は巡洋艦に乗船し、12年12月から「朝潮」、15年12月から「卯月」の艦長などを経て17年12月から戦艦「河内」に水雷長として乗船していた。爆沈時、正木艦長は会議のため不在で、藤好少佐が全体の指揮をとったという。
亡くなった時は38歳。田中さんは「藤好少佐は殉職しなければ将官になっていた人だったのでは」と話し「今回の記事のおかげで貴重な史料を手に入れることができた。まだ新しい史料の入手が可能かもしれない」と喜んでいる。

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